江東天祖神社
御祭神 | 天照皇大御神 | |
神社名称 | 江東天祖神社 (旧称:砂原神明宮) | |
御由緒 |
御創建は推古天皇(554〜628)の御代、聖徳太子の作による神像をまつると記載されています。 葛西誌や新編武蔵風土記には、次のように記載されています。 「応永十年(1403年)・龍眼寺開山沙門良博再建」、「武蔵国葛飾郡柳島神明社 村の鎮守なり龍眼寺持 開山良博夢の告有聖徳太子の神像をまつる 能く疫病をのぞく霊験あり故に疫病除神明と称す」、「天文三年再修築あり」又天正年間(1573〜91)「疫病大流行の折、織田信長使いを遠く参向させ神前に流鏑馬を奉納する」とあります。以降恒例となり、現在、氏子児童を選出して同日(毎年9月16日)に流鏑馬を執行する。 上記にある龍眼寺と有るは神仏習合時代、栗原橋際に有る龍眼寺(萩寺)が別当職として守護した所以である。 現社殿は大正十年企画され、関東大震災を経て昭和四年日本最初の防災建築にて竣工、内部は総檜造りで外部鉄筋コンクリートの俗に金庫造りと言われ、当時は神社界に前例が無い事から賞賛され、その後神田明神等日本中で同工法の神社建築が始まる。 『社伝及び文献による』 古くは柳島総鎮守神明宮と称し明治五年柳島村社に列し天祖神社と改称された。 『流鏑馬式』縁起について |
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祭開催日 | 毎年九月十六日(例大祭執行後) | |
見所 |
境内 |
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境内社:太郎稲荷神社 境内に有る稲荷神社。宇迦之御魂大神(伏見五祭神)が祀られています。 和銅4年に伏見稲荷の大神をいただいて徳川時代、筑後柳川11万9,600石の大名、立花家下屋敷(今の千束2丁目と入谷2丁目)にあった代々の守護神であったものを、江戸末期天祖神社境内に移したもの。当時評判が良かったので、一般に開放したら享和、文化から慶応にかけてなぜか、はやったりさびれたりを繰り返したようです。 樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社です。主人公が太郎稲荷神社に商売繁盛の願掛けに行く場面があります。 宇迦之御魂命: 伏見稲荷大神の御分霊にて、太郎稲荷様は特に技芸上達、商売繁盛の神として崇拝され、歌舞伎役者や寄席芸人等水商売の人々の参拝が多く、天祖神社境内の守護神福禄寿(七福遊び)として親しまれ「人望福徳の神」正月七草の日に参拝者が多い、最近は信仰に関係なく一年を通じて、御朱印集めの為の来訪者が多い。 【立花家】 立花家の先祖が太郎稲荷の夢のお告げにより切腹を免れることが出来たということで邸内社とした |
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亀戸七福神:福禄寿
幸福、高給、長寿の神、人望福徳
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獅子頭(雌雄)は破邪の霊獣として尊ばれ、行列を守護する役目を持つ。 |
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御手水の上には、四神の青龍・白虎・朱雀・玄武の彫り物があります。 四神とは、中国漢の時代の神獣で、 四方から降りかかる悪災を鎮め四方を守護すると伝えられています。
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流鏑馬式 |
流鏑馬式には「白弓」「黒弓」と言う伝統があり 次のような意味があります。 「白弓は世の中が平穏の折りはむく榎の小枝の皮を剥ぎ白弓として献上せよ」 「黒弓は世の中が不穏の折りは桑の小枝等を用いて皮を剥がず黒弓とし献上の事」 といわれています。第二次世界大戦期に二、三回黒弓が使われたそうです。 流鏑馬式は女児を交えた子供歩射で、萌黄直垂に、烏帽子を被り、中啓(扇)を持った服装で、 |
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家紋 |
右三つ巴 |
巴とは水が渦を巻いている形をあらわしているそうで、いわゆる渦巻き。この渦巻を火災予防のお呪いとして、民家では屋根瓦や土蔵などに用いていることが多いそうです。しかし巴にはもっと深い意味があり、武士の弓手に巻く皮具-鞆(とも)から、また、古代の宝器であった勾玉が巴形で、これが神霊のシンボルに移転したこともこの紋が広がった要因のようです。 |
氏子区域 | 旧葛西領
柳島村全域(本所柳島、亀戸柳島新田) 現町名 錦糸2.3丁目、太平2.3丁目、横川4.5丁目、業平5丁目の全域 横川2.3丁目春日通り南側全域、太平4丁目及び業平4丁目南部は3分の2の区域 亀戸1.3丁目は3分の1の区域、亀戸2丁目は4分の3の区域。 |
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参考資料 | 天祖神社祢宜様のお話、リーフレットなど | |
鎮座地 | 〒136-0071 江東区亀戸3-38-35 | |
巡行図 | ||
TEL | 03-3681-3042 | |
FAX | 03-3681-3042 | |
最寄り駅 | JR総武線「錦糸町駅」または「亀戸駅」下車 徒歩15分 JR総武線「亀戸駅」より都バス5分「亀島小」下車 徒歩1分 都営浅草線・半蔵門線「押上駅」より 徒歩10分 |
新編武蔵風土記 | 1810年に林述斎が建議し晶平坂学問所の地理局で編纂され1830年に幕府に献上された文書です |
天照大御神 | 伊邪那岐命の三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)のひとり。 高天原を治められた天照大御神は、いよいよ皇孫 瓊々杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降りられるとき、皇位の璽(しるし)である三種の神器(八咫鏡:やたのかがみ・草薙剣:くさなぎのつるぎ・八坂瓊勾玉:やさかにのまがたま)を授けられて、「この鏡は、もはら我が御魂(みたま)として、吾が前を拝(いつ)くがごと拝き奉(まつ)れ」と神勅を下されました。 この御鏡こそが天照大御神の御霊代としておまつりする神鏡(しんきょう)です。天照大御神は、その文字が示すように、天を照らす太陽を象徴しています。 しかし、太陽そのものを神とするのではなく、太陽に例えられるような、偉大で明るい立派な日本民族の祖神を意味する神さま。 伊勢神宮 内宮の御祭神。天にありて、あまねく万物を照らし、森羅万象を司り、ご守護下さる御神格を有し、日本全国約八万神宮神社の総氏神「本宗」と称し全国神社の真の柱と仰ぎ崇敬されている |
明治以前の神仏習合期における本地垂迹説に関する資料 |
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社名:砂原神明宮 | 垂迹(すいじゃく): | 本地(ほんじ): |
現在の祭神:天照皇大御神 | ||
由緒 | ||
往年数次大洪水二遭ヒ文献流失セルモ存在セシ記録、古老ノ伝へ社伝二依レバ推古天皇御代創建聖徳太子作ノ神像ヲ神体ト祀シ四民ノ崇敬厚シ、永享年間(約五百五十年前)社殿壊頽スル、戦乱時代ニテ修造出来ズ、大永年間下総住人沙門良博、主人新田義興(千葉一族)相謀リテ天文十年再建ス 天正年間疫病大流行ノ折織田信長使ヲ遠ク参向サセ神前ニテ流鏑馬式ヲ奉納スル祈願旬日ニシテ霊験顕ル後恒例トナリ現今ニテ行ナハル氏子選出少年やぷさめ行事ソレナリ明治初期迄ハ元旦ヨリ七日迄今ノ萩寺(竜眼寺)ノ角二授与所アリ 町役人総代等ニヨリ神明疫除神符ヲ配布、授与サル参拝者ハ未明ヨリ日没迄先ヲ争ヒ拝受ス 安政二年大震災二遭ヒ再度崩壊仮宮ヲ再建スルガ後十年造営ナラズ昭和二年九月現社殿ノ造営会ヲ設ケ 同三年六月起工 同四年十二月七日竣エスル コノ現社殿ハ神明造ノ最モ優美ナルモノニシテ内部ハ堅固ナル鉄骨鉄筋コンクリート材ヲ用ヒ殿内部ハ総檜造木造ニテ荘重ナルモノナリ |
雑 学 | ||
七福神 | 布袋尊 | 中国の禅僧で実在の人物です。 弥勒の化身で全てを包容する和合成功の神様。 |
毘沙門天 | インドの神様です。右手財福を生む宝棒(鉾)、左手に除災招福の宝搭をもっています。 別称:多聞天。 | |
福禄寿 | 短身長頭で白い髯がある中国の神様で南極老人星の化身です。 福は幸福、禄は高禄、寿は長寿をあらわし、三徳を兼ねた神様。 |
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寿老人 | 杖をつき長い頭の中国の神様です。 七福神の第一におかれており、長寿延命の神様。 |
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弁財天 | ヒンズー教の代表的女神サラスバーティを由来としている水の神様です。 音楽・弁舌の能力も与えてくれる、知恵と財宝の神様。 |
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恵比寿 | 右手に釣りざおを持ち、左手に鯛をかかえている、狩衣姿の日本古来の神様。もともとは航海と漁業の守り神。商売繁盛の神様。 | |
大黒天 | 米俵に乗っているインドの神様と大国主命の習合。 大きな袋と打ち出の小槌で多くの人々を救済する出世財福の神様。 |