牛島神社

御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
天之穂日命(あめのほひのみこと)
貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)
神社名称 牛嶋神社(牛御前社)
御由緒 牛嶋神社は隅田川の東岸、もと水戸徳川邸跡の隅田公園に隣接する墨田区向島一丁目四番地に鎮座しています。古くは本所区向島須崎町七十八番地(向島・長命寺の近く)にあったが、関東大震災後隅田公園の設計の都合上昭和の初め現位置に再建されました。
明治維新前は本所表町(現・墨田区東駒形)の
最勝寺がその別当として管理していたが、明治初年の神仏分離後『牛の御前』の社名を『牛嶋神社』と改め郷社に定められた。(本所の総鎮守である)

神社に伝わる縁起書によると、貞観二年(八六〇年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀し後、天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし『王子権現』と称した。例祭日九月十五日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行った日であるといわれている。

治承四年(一一八○年)九月源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水の為に渡ることが出未なかった。その時武将千葉介平常胤が祈願し神明の加護によって全軍無事に渡ることができたので、頼朝はその神徳を尊信して翌養和元年(一一八一年)に社殿を経営し、千葉介平常胤に命じて多くの神領を寄進させた。永禄十一年(一五六八年)十一月に北条氏直が関東管領であった時、大道寺駿河守景秀が神領を寄進している。また天文七年(一五三八年)六月二十八日に後奈良院より『牛御前杜』との勅号を賜ったといわれる。

江戸時代に於ては鬼門守護(最勝寺は五色不動の目黄不動尊)の杜として将軍家の崇敬厚く、特に三代将軍家光は本所石原新町の土地を寄進して祭礼神輿渡御の旅所としたという。もとの若宮町(現在本所二丁目)の攝杜若宮はこれである。
総桧権現造り東都屈指の大社殿を誇る牛鳴神社は、昭和三十二年鎮座千百年祭を行い氏子五十余町牛島講の守護神として崇敬尊信をあつめている。

本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居(三つ鳥居)と「狛牛」があります。

開催日 9月中旬(5年に一度の大祭 次回は2007年)
大祭には、鳳輦神幸祭・町神輿連合渡御(五十基の町神輿が三カ所に分かれて集合し、連合渡御のあと順次宮入)・大祭式典・奉納演芸・お神楽などが行われる
見所

 

社殿
東都屈指の大社殿
関東大震災後に現在の位置に移されました。
東京大空襲での類焼も免れ東都随一といわれる総
桧権現造りの社殿は昔のままの姿をみせており、狛犬と並んで左右一対の神牛(狛牛)が奉納されています。 b
須佐之男命厄神退治之図 
葛飾北斎は1845年(弘化2年)牛嶋神社の傍にすんでいたといわれ「須佐之男命厄神退治之図」を奉納しています。
全体に銀箔使用された豪華な作品(126×276cm)でしたが関東大震災で消失してしまいました。

三輪鳥居
本殿前には全国でも数少ない三輪鳥居があります。
また近くの三囲神社には、三井邸より移された三柱鳥居(
三角石鳥居)もあり一見の価値あり。

鳳輦渡御 神幸祭本祭の年
百五十人ほどの神官や氏子らに守られた鳳輦を中心とする古式豊かな行列が子全町を安泰祈願巡行をする神幸祭が執り行われます。、二日で約四十キロ近くを巡行します。
鳳輦を曳く牛は橋を渡るときにも一気に駆け上がるほど元気な牛でした。この牛は、この神幸祭のために福島県相馬郡で委託飼育されている黒雄和牛です。途中、本所二丁目にある摂社牛嶋神社(若宮)で御一泊され翌日還御されます。

渡御の前日の夕刻には御本殿より御鳳輩へ御神霊を移す神霊代遷座が行われます。牛嶋神社では、神霊を鳳輦に遷すとき鳳輦の台部の穴に花棒を差し込んで担いで社殿に入れるが、このときは神輿と呼び、車輪を付けて渡御するときは鳳輦と呼んでいる。
撫で牛青銅製)
江戸時代から庶民に親しまれた「撫で牛」(なでうし)が祀られています。 牛の同じところをなでると病気が治るという信仰で、体だけではなく心もなおるという心身回癒の祈願物です。また、子供が生まれたとき、涎かけを奉納し、これを子供にかけると健康に成長するといういいつたえもあります。
この牛の像は、牛御前または牛嶋という神社の名称に由来して作られたもので、文政八年(1825)ごろ奉納されたといわれています。
逸話 「牛御前」の話は室町時代あたりに盛んに語られました。平安時代の武士、源頼光の兄弟にまるで牛鬼のような姿をした子が生まれ、牛御前と呼ばれたそうです。牛御前は山で育てられ、すさまじい腕力をもつ若者に育ちましたが、父はこの子を嫌い、頼光にこれを討つように命じてしまいます。父の裏切りを知った牛御前は、恨みの果てに鬼となり、関東に下って鬼の国を作ろうとしました。ですが、源頼光の家来でその名も高い「四天王」(渡辺綱他)らはこの牛御前を滅ぼしてしまいます。牛御前は隅田川に身を投じ、巨大な化け物となってあたりを水びたしにしたということです。
家紋


丸に剣方喰
(まるにけんかたばみ)

昔話に、かたばみの葉をすりつぶして鏡を磨くと、想う人の顔が鏡のなかにあらわれるという話があります。さらにかたばみ紋の葉はハート形で、女性に好まれる紋である。また、良妻と賢母を両立させる草としても親しまれており、西洋でもかたばみの花言葉を「賢い婦人」といっているそうです。田のつく姓にはかたばみ紋が多いそうです。

参考資料 牛嶋神社リーフレットなど
巡行図

平成14年 大祭 牛嶋神社連合渡御巡行図

鎮座 〒131-0033 墨田区向島1-4-5
TEL 03-3622-0973
FAX 03-3622-0470
最寄り駅 都営浅草線「本所吾妻橋駅」 徒歩4分
東武伊勢崎線「業平橋駅」 徒歩5分
営団銀座線「浅草駅」 徒歩10分

 

須佐之男命 伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰り、筑紫の日向の橘の少門の阿波岐原で禊ぎをした時に生まれた神。
伊邪那岐神の三貴子の一人で、最初海を管理していましたが、母神伊邪那美神のいる根国に行きたいといってそこを去り、姉である天照大神にあいさつするといって高天原(たかまがはら)に行きました。しかしそこで天岩戸事件を起こして、高天原から追放される。
京都・八坂神社などと同じ御祭神です
天之穂日命 天照大御神と須佐之男命との間で行われた誓約のときに生じた、天照大御神の御子神。「日本書紀」によれば、出雲国意宇郡を本拠とした出雲臣、大和朝廷で土器作りや葬儀などの管理をしていた土師連の2つの氏神の祖神とされている。
江東・亀戸天神社などと同じ御祭神です
貞辰親王 清和天皇の第七皇子  
葛飾・王子白髭神社などと同じ御祭神です
王子白髭神社の社伝によると、貞辰親王が東国遊行の途次、元慶元年(937)この地に薨じた。たまたま浄光寺に留錫中の比叡山
慈覚大師良本阿闍梨に命じて、親王の遺骸を葬り、王子権現として慰霊を行って以来、浄光寺がその古墳を管理したとあります。 
牛嶋神社とほぼ同じ社伝です
最勝寺 牛宝山・明王院 最勝寺(天台宗)  関東三十六不動霊場第十九番 
動明王(良弁僧都作)(目黄不動尊
御本尊 釈迦如来(慈覚大師作)〈牛島神社の本地仏〉
現在は江戸川区・平井にあります。

貞観二年庚辰(860)慈覚大師(794〜864)が東国巡錫のみぎり、隅田河畔に一寺を建立したのが、そもそもの創りといわれ、良本阿闇梨(伝不詳)の開山である。もとは本所表町(現、東駒形)にあり、牛島神社の別当を明治維新に至るまでつとめた。最勝寺は、五色不動のひとつ、目黄不動とされる。
牛島神社(牛の御前)の別当を明治維新に至るまでつとめた。
慈覚大師 慈覚大師円仁(794〜864)とは、最後の遣唐僧として唐にわたり日本の天台宗を大成させた世界的な偉人。また、最初に朝廷から「大師号」を最初に授けられた高僧。
牛島 天武天皇の時代(701〜764)に隅田川に沿う旧本所一帯(両国〜向島)が牛島という島であったこと、浮島牛牧と言われ国営牧場が設置されていたことによると思われる
五色不動 目青、目黄、目赤、目白、目黒の五色は、五方角(中央・東・西・南・北)を色で示すものです。各位置は江戸城(青)中心として、それぞれ(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤)、甲州街道(白)、東海道(黒)といったように江戸府内を中心とした五街道沿いにあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたといわれています。
最勝寺の別当だった牛嶋神社の傍には水戸街道が走っており、むかしからこのあたりが水戸街道の起点だったのではないでしょうか。
東京の地名でも『目白』、『目黒』ってありますね。

明治以前の神仏習合期における本地垂迹説に関する資料

牛御前

社名:牛嶋神社・旧郷社 垂迹(すいじゃく):牛御前王子権現 本地(ほんじ):大日如来
現在の祭神:建速須佐之男命・天之穂日命・貞辰親王

「本所総鎮守牛御前王子権現略縁起」

抑武蔵国葛飾郡本所牛嶋惣鎮守牛御前ハ、人王五十六代清和天皇御宇貞観二年庚辰九月中旬、慈覚大師勧請の神霊也。然に大師当国弘法之砌、此所におゐて日既に暮たり。森の内に当て一ツの草屋あり。立寄給ふに、位官の老翁優然として座せり。大師扉にたたすミ宿を乞ヘハ翁悦請す。大師翁に問給ふハ、如何成高貴の御方にてましますや、かかる辺鄙の御住所不審と尋給ヘハ、翁答曰、我是素戔烏尊也。東国に跡を垂国家ヲ守護せんとおもへとも、未だ人を得ず。幸い今師に逢り。我形を写して師に与へん。我為に一宇の神社を建立せよ。我影像に心を留めて国土に悩乱あらハ首に牛頭を戴、悪魔降伏の形相を現して天下安全の守護たらんと。位官の影像を自画して大師にあたへ老翁ハ忽然と化去給ふ。今牛御前垂跡之神躰ハ此尊像を崇なり。大師感肝に銘じ、則神の告にまかせて国人を勧一宇を造立し、牛頭を戴て守護給ハん誓にまかせて牛御前と神号を奉る。依て嶋の惣名を牛嶋と申伝へぬ。大師随身之御弟子良本阿闍梨を留めて汝尊像を守り奉れとて、一宇を護給ひ、猶又牛御前本地仏大日如来を造立して本尊となし給ふ。今の本地仏是也。


 平成14年 御鎮座1145年
大神輿連合渡御 駒札一覧

第一組 第二組 第三組
集合 北斎通り 集合 春日通り 集合 小梅通り
一番 両国一丁目 十二番 太平一丁目 三二番 向島一丁目
二番 両国二松元会 十三番 横川一丁目 三三番 業平四丁目南
二番 両国二両横会 十四番 横網 三四番 業平一丁目
三番 両国三丁目 十五番 石原一丁目 三五番 業平二丁目
四番 両緑敬神講 十六番 石原二丁目 三六番 業平三丁目
五番 亀沢一丁目 十七番 石原三丁目 三七番 業平三丁目南
六番 亀沢二丁目 十八番 石原四丁目 三八番 業平四丁目
七番 亀沢三丁目 十九番 本所一丁目 三九番 押上一丁目
八番 亀沢四丁目 二十番 本所二丁目 四十番 中之郷
十番 緑四丁目 二一番 本所三丁目 四一番 小梅一丁目
十一番 錦糸一丁目 二二番 本所四丁目 四三番 小梅二丁目
二三番 東駒形一丁目 四四番 小梅三丁目

二四番 東駒形二丁目

四五番 向島二三丁目
二五番 東駒形三丁目 四六番 向島二丁目睦
      向島三丁目
二六番 東駒形四丁目 四七番 向島四丁目南
二七番 吾妻橋一丁目 四八番 向島五丁目東
二八番 吾妻橋二丁目 五十番 向島五丁目西
二九番 吾妻橋三丁目
三十番 横川二丁目
三一番 横川三丁目


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